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東勝寺跡
東勝寺跡イメージ 鶴岡八幡宮より南東へ約500m、宝戒寺裏手に腹切りやぐらで知られる東勝寺跡があります。

東勝寺は鎌倉幕府第三代執権北条泰時が母の追善と北条宗家の菩提寺として栄西の弟子退耕行勇を請じ嘉禎3年(1237)に建てられたとされ、山号を青竜山と号し臨済宗と密教の兼修寺院で関東十刹の一つでした。元亨3年(1323)の北条貞時十三年忌法要には東勝寺の僧衆53人が参加しており、諸寺の僧衆のうちこの数は十番目に多く、かなりの大寺であったことを知ることが出来ます。その10年後、元弘3年(1333)5月22日には、新田義貞が率いる軍勢が一挙に鎌倉へと攻め入り、追い詰められた北条高時は諸大将と共に父祖代々の菩提寺である東勝寺へ移り、寺院に火をかけ一族283人、総勢870人余りが我先にと次々に自刃して果てました。建久3年(1192)源頼朝公が開いた鎌倉幕府はここ東勝寺にて終焉を迎えたのです。その後間もなく復興された東勝寺がいつ廃絶したのかは明かではありませんが『鎌倉廃寺辞典』によると、文明18年(1486)に一旦廃絶し、永正ごろ(1504〜21)再興、元亀4年(1573)ごろには廃寺になったと考えられています。
東勝寺跡イメージ
腹切りやぐら
東勝寺跡はこれまでに4回にわたって発掘調査が行われました。昭和50、51年の調査では、北条氏の家紋である三鱗文のある瓦や一般寺院ではあまり見られない青磁・天目茶碗などの貴重な中国製陶磁器の発見、また石垣の石畳状の坂道が発見されたことから城塞的色彩の強い寺跡であることが明らかになり、この遺跡が東勝寺の一部と推定されました。平成8,9年の調査では、客間らしき掘立柱建物跡が検出され、出土遺物から14世紀中頃までのものと考えられ、また建物が非常に大きく、谷戸の中で唯一腹切り伝説のある地に接して存在することから、北条高時一門が自刃した建物であるのかも知れません。

これらの成果により「東勝寺跡」は鎌倉では27番目の国指定史跡になりました。


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