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比企ヶ谷 (ひきがやつ)
比企ヶ谷イメージ 若宮大路の東側を平行して走る道は、かつては小町大路と呼ばれ、武家屋敷の建ち並ぶ賑やかな通りでした。この道を南に下り、夷堂橋を渡った左手の谷戸が、比企ヶ谷と呼ばれる場所です。

比企ヶ谷という呼称は、鎌倉時代草創期の重臣、比企能員ら比企一族がこの地に居館を構えていたことに因んでいます。比企氏は武蔵国比企郡を本拠とする藤原氏系統の武士団でしたが、能員の養母比企尼が頼朝公の乳母であったことから、頼朝公挙兵直後から源家再興のために尽力し、平家討伐、奥州征伐、大河兼任の乱などで戦功を挙げ、頼朝公と良好な関係を築き、その力を増大させていきました。

北条政子が二代将軍となる頼家を出産したのも比企の館で、頼家の乳母には能員の妻が当たりました。時を経て頼家が成長すると、能員は娘の若狭局をその室として嫁がせ若狭局は頼家との間に一幡という子を儲けました。このような流れの中で、頼家政権下ともなると、比企氏は功臣としてのみならず、外戚として更に権勢を増していき、次第に北条氏と対立するようになりました。

建仁3年8月、病気の頼家の後継者問題が持ち上がると、両者の対立は表面化、激化の一途を辿り、同年9月北条氏は能員を謀殺、一幡を擁して幕府小御所に立て籠もる一族を滅亡させました。これが世に比企の乱と呼ばれるものであります。

現在、比企ヶ谷には往事の比企一族の権勢を偲ばせるその名と共に、妙本寺という日蓮宗の寺院が建っています。妙本寺は能員の末子と称する大学三郎能本が、一族の菩提を弔う為、かつての邸跡に日朗を開山として建立した寺院です。

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