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大江広元邸跡
大江広元邸跡イメージ 朝比奈へ貫ける六浦路沿い、滑川に架かる明石橋。その明石橋の南側山影に大江広元邸は今もひっそりとその跡を止めています。

大江広元は式部少輔大江維光の子として生まれ、明法博士中原広季の養子となり、元暦元年(1184)頼朝公の招きにより鎌倉へ下向、義兄中原親能と共に幕政に参与し、公文所(のちの政所)別当として守護地頭職設置の献策など手腕を揮い、頼朝公の厚い信任を得て公が没して後も北条時政・義時らと連携しこの後の幕府の確立と武家社会の礎を築きました。

さて広元邸があったこの六浦路は、鎌倉の貿易を担い北条別邸があった金沢へ通じる要道でありました。また当時は御家人と云えども鎌倉に屋敷を構えることができるのは有力武士だけであったようです。それも一戸主といわれる広さ(今日の140坪)が通常であり、今は市街のはずれになりますが広元はかなり良い所に広い土地を賜ったと云えましょう。

また広元は没しては頼朝公墓東谷奥に祀られたと云われています。邸宅もその墓所の地も幕府と武家社会確立への尽力した顕れといえましょう。尚、広元の四男季光は相模国愛甲郡毛利荘の地頭職となり毛利氏を称します。その子孫は承久の変の後、安芸国へ守護地頭として移住、その後中国地方の大々名となり、江戸時代末には尊皇攘夷・武家社会の解体・近代国家の確立に尽力したのは奇しき縁と云えましょう。

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