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「畠山重忠邸跡」
「畠山重忠邸跡」イメージ 流鏑馬馬場を真っ直ぐに東(馬場元)に向かって歩き、鳥居を出るとすぐに「畠山重忠邸跡」の石碑が目に入ります。この辺りは現在、横浜国立大付属小中学校の敷地になっていますが当時は御家人の中でも特に有力な武士の屋敷が、多くあったところで、八幡宮に近い場所に居を構えていたのが畠山重忠でした。

重忠は、はじめ平氏に従っていましたが、頼朝公が安房より武蔵に入った際に源氏に属し、木曽義仲を追討軍に参加、続いて源範頼指揮の平氏追討軍にも参じましたが軍監梶原景時と折り合い悪く、義経の下へと走り活躍しました。一の谷の戦での逸話、さらに奥州藤原氏討伐等数々の勲功に、頼朝公の信頼もしだいに厚くなり、後には二代将軍頼家の補佐も託されました。

治承4年(1180)12月、頼朝公は仮居であった平広常邸より大蔵郷に新造された館に入りました。この移徒(わたまし)の儀の行列で先陣を和田義盛、後陣を重忠がつとめました。それぞれ重要な役目で、またこの時に出仕した武士は311名を数え、これら御家人がめいめい屋敷を構えたのですから、寂れた村里だった鎌倉は一挙に都会になりました。

重忠もこの鎌倉に屋敷を構えたことでしょうが、実際のところ正確な場所はわかっていません。いろいろな説があり、『新編鎌倉志』には「筋替橋ノ西北ヲ畠山重忠ガ屋敷ノ跡ト云ウ」、『鎌倉欖勝考』では「筋替橋より北の方なる、田圃の地をいふ右大将、御館の西に続けり」『新編相模国風土記稿』は「筋替橋ノ坤方(うしとら)ニアリ、方一町許。いま陸田ヲ開ケリ」とまちまちなのです。『吾妻鏡』では、現在は残っていない地名でおそらく幕府の南側の門という意味からきたであろう「南御門」にあったと記しています。最後まで結論は出ませんし、でもまた、史実はもちろん一つでしょう。しかし、このように邸宅の場所一つを探ってみるだけでも、忠恕な鎌倉武士、畠山重忠の人物像について考え、思いを馳せることができるのです。

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