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巨福呂(小袋)坂
巨福呂(小袋)坂イメージ 鎌倉に通じる陸路は「切通し」と呼ばれ、切岸,平場,土塁などの防衛防御の設備が施され、敵軍の進入を防ぐために山を削り切り開いたものでした。

鎌倉の切通しは七口ありますが、このうち裏八幡より北鎌倉へ通じる坂道を“小袋坂”と呼びます。現在の坂道は明治19年開通の新しい道で、かつてこのあたりは当宮に奉仕した供僧の二十五坊があった処で、小袋坂との境に黒門を設けて俗界と区別し、門番を置いていたといわれております。

さて、旧小袋坂は八幡宮車祓所のあたりより西へ進む坂道で、『吾妻鏡』仁治元年の記事に、北条泰時が「武州の御亭において、山ノ内に道路を造らる由その沙汰あり」とあります。北条泰時は険難だった主要街道を修造すると共に北条領となった山ノ内庄への便宜をはかりました。また、遊行念仏の開祖一遍上人は、鎌倉に布教する許可を得ようと小袋坂まで来た時、北条時宗にあって鎌倉入りを拒まれ、崖下で念仏を唱えながら一夜を明かしたのもこの坂です。以来、京都,武蔵方面から鎌倉へ入る主要路でした。

しかしながら、この地は鎌倉幕府にとって大変な要害の地でもあり、事ある毎に祭りが行われ、嘉禎元年12月将軍頼経が疱瘡をわずらった時「四角四境」の祭りを行ったと『吾妻鏡』に見えます。この祭は、疾病を払い郷村の難を退けるため、邑の四境などで行う祭祀で、道祖神や庚申、様々な神々にこの小袋坂より入り来る悪鬼払いを祈る処でもありました。江戸時代には俗に坂町と云われ、江戸から鎌倉へ遠乗りする武士等の為に「遠馬茶屋」や馬つなぎ場もあり、江戸庶民の八幡宮参詣のための宿屋や茶屋などもあり賑わいを見せました。現在もそのなごりとして、道祖神や庚申塔が並び、坂の西側には青梅聖天が祀られ、昔の繁栄を今に感じさせます。

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