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大蔵幕府跡
大蔵幕府跡イメージ 八幡宮境内を横断する流鏑馬馬場を東へ抜け、横浜国立大付属小中学校の敷地に沿って進むと間もなく右手に真っ直ぐな桜並木が見えてきます。

この並木道を挟んで南北200m四方余の平地が「大蔵幕府跡」と云われています。治承4年(1180)に鎌倉入りした源頼朝公が居館を構え、初期の政権機能を置いた所で、八幡宮の社頭を幕府の精神的な中核となしたのに対し、此処は日常的な実務の中心となっていたのでしよう。

現在この付近に「西御門」の地名が残されていますが、これは字の如く幕府の西門から生じた名称であり、一方の「東御門」は現在の二階堂地区と境を接し、主要道であった金沢道に面しては「南御門」があったと思われます。東御門から北東へ約100m余、二階堂の西端に当たる丘の上には、学問学芸の神様として著名な荏柄天神社が祀られていますが、この天神社は幕府の鬼門に位置しており頼朝公入府以来歴代の将軍家、御家人等が厚い崇敬を寄せていた古来の名社です。

幕府跡北方の山々は「大蔵山」と云い、その山懐には国の史跡である頼朝公の墓所を始め、初代政所別当大江広元墓や島津家の始祖忠久墓、三浦一族の墓域と伝えられるやぐら等が残されており、幕府創業の地に繰り広げられた人の世の移ろいを見守り続けてきました。嘉禄2年(1225)幕府の中枢は小町にある宇都宮辻子に移され大蔵の幕府は45年間でその役割を終えます。

400年の後、寛文年間に鎌倉を訪れた沢庵宗彭の『鎌倉巡礼記』には、「ゆくての右に芝生のひろき所あり。是は右大将(頼朝公)の御殿の跡也とて民いまに種ものをまかぬと也。」とあり、鎌倉の人々が頼朝公の遺徳を慕い、その足跡を残すこの地を後世まで大切に守り伝えていた状が窺われるのです。

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