歴史のはなし
鎌倉人物志
鎌倉に所縁のある人々の紹介です。

鎌倉右大臣 源実朝公
源実朝イメージ 実朝公は頼朝公の次男として誕生。頼朝公の死後、母政子と北条氏の操り人形として実権の伴わない三代将軍を演じることを余儀なくされた。1219年1月、雪化粧の鶴岡八幡宮石段の砌にて28歳で殺害された。歌人としても有名。
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漂泊の歌人 西行
西行イメージ 23歳で出家した西行は、漂泊の心に誘われて孤独な旅に出る。彼のゆらめく心は、その流麗な調べに歌い出され、風雲に身を任せ、未知なる遁世の旅に誘われていく。1186年、鎌倉の地を訪れ、頼朝公と会う。
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源義経
源義経イメージ 義朝の九男で頼朝公の異母弟にあたる。寿永2年(1183)異母兄の範頼とともに頼朝公の代官として西上。翌年先ず京の木曾義仲を近江に討ち、つづく平家との一ノ谷における戦いでは世に名高い「鵯越の逆落し」によって平家方に壊滅的な打撃を与えた。
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大江広元
大江広元イメージ 朝廷に出仕して少外記まで進んだが、源頼朝公の招きで1184年ごろ鎌倉に下ったと思われる。
頼朝公の信任厚く同年10月、公文所の開設に伴いその別当となり武家政権の基礎固めに尽力した。
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梶原景時
梶原景時イメージ 梶原氏は鎌倉氏の末裔で、鎌倉西部の梶原郷を本拠とした武士団。
石橋山合戦では景時は平家方の軍に属していたが、敗れて洞窟に身を隠している源頼朝公を見付けながらも、味方をあざむいて頼朝公を救ったことはあまりにも有名。
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北条泰時
北条泰時イメージ 泰時の業績は多いが、武家の為の最初の法典である『御成敗式目』を制定、武士の在り方や公正・迅速な裁判を可能にしたのはその中の筆頭に挙げられる。泰時の時代は鎌倉の黄金時代であるが、これは泰時の器量や資質に依るところが大きい。
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日蓮
日蓮イメージ 日蓮宗の開祖。安房国(千葉県)長狭郡東条に生まれる。清澄山で修業を行ない、やがて天台宗の本山である比叡山に登り、法華経を信仰することこそ仏教の真髄であるとの考え方に基づき、独自の教えを説くに至る。
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鎌倉殿 源頼朝公
源頼朝イメージ 建久3年(1192)には、征夷大将軍となり、鎌倉幕府を設立。鎌倉では、まず鶴岡八幡宮を祀って源氏の氏神とし、同時に鎌倉の町づくりの中心にすえて都市造りを進め“鎌倉殿”として武家政権の基礎を築いた人物。
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白拍子 静御前
静御前イメージ 静御前は源平争乱時代の著名な白拍子で、源義経との悲恋はよく知られている。義経と吉野山に落ちた後、静御前は捕らわれ、義経捜索の為鎌倉へ護送された。
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北条政子
北条政子イメージ 伊豆の豪族であった北条時政の娘として生まれた政子は、源頼朝公と熱い恋に落ちる。頼朝公の器量を認めた時政は二人の仲を許し、頼朝公を支援する腹をくくり、ここに頼朝公挙兵の下地が整ったのである。
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文覚
文覚イメージ 武者であったが、出家して文覚と号した。出家の原因については、同僚の源渡の妻袈裟御前に懸想し、渡を殺すつもりで身代わりとなった袈裟を手に懸けてしまったことにあるといわれる。
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三浦義明
三浦義明イメージ 三浦半島全域を本領とした豪族三浦一族の総帥で三浦大介と呼ばれる。三浦氏は頼義の時代から源氏の家臣。頼朝公の挙兵計画はこの三浦一族の来援を頼みとしたものであった。
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北条義時
義時は鎌倉幕府第二代の執権。父時政の第2子として生まれ、兄の戦死に伴い嫡子になった。
1180年の源頼朝公の挙兵に一族で参加、頼朝公の深い信頼を得るに至った。武士としての武勇・軍略よりは政略・軍政に秀でた義時は頼朝公の補佐役として活躍し、ほかの御家人達とは一線を画す存在であった。
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北条時宗
北条時宗イメージ 時宗は元寇を処した第八代の執権。父時頼の第2子として生れ、得宗家の正嫡として育てられ、元服して相模太郎と称した。幼い時から武芸に秀で、果敢な性格であった。
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